職場の同僚のお子さん。近々、進路希望調査書の提出があるらしい。もう随分前のことだけど、私もたくさん悩んだことを思い出した。色々な大学のオープンキャンパスに足を運んでは、そこに通う大学生を目にして憧れを持ったものだ。
高校生の私は「将来〇〇になりたい」という意味での目標は設定できなかった。それでも、色々な大学を見ていくうちに、雰囲気が心地よくて好きだと思える大学に出会うことになる。この大学に入学したい、とそう思って始めた受験勉強だったが、次第に受験科目の勉強自体が楽しくなってきた。変な言い方かもしれないが、高校生の私は勉強にはまったのだ。だから勉強は苦ではなかった、むしろ没頭していたように思う。
志望していた大学に入学すると、軽い気持ちで入部した部の活動に今度は夢中になった。高校時代、あんなに没頭していた勉強への熱意はどこへやら。卒業に向けてとにかく単位だけは落とさないように、次第にそんなモチベーションで授業や勉強に臨むようになっていた。大学の四年間、私は部活動を最優先にして情熱を注ぎ、駆け抜けたのだ。
私は昔から、そのときそのとき夢中になったことに一直線だったように思う。
きっと、先のことを考えて逆算をして今を生きるのが苦手なのだ。そして二つ以上のことを同時にやることも苦手だ。不器用ここに極まれり、である。
元来そんな気質の私であるが、今はたくさんの事柄を、しかも先を見越してバランスよくこなさなくてはいけない状況にある。子育て、仕事、家事…どれかひとつに振り切って情熱を注げたならどんなにいいか。
しかし現実にはそれが難しいことも分かっている。だからこそ悔しい気持ちがいつも心のどこかにある。子育て、仕事、家事、それぞれを全て満足にこなせるほどの時間とパワーが足りないのだ。ひとつを選んで夢中になって全力でやれば、もっともっと成果が得られるのに、そう思うがゆえに歯がゆい。
歯がゆさと同時に、今まで何かひとつのことに夢中になってこれたことはとても贅沢だったのだと身にしみて感じる。やりたいことに打ち込める環境が、私の父や母、家族の支えによって与えられていたことに気づかされた。
父や母がそうしてくれたように、今度は私がわが子たちの環境を整えていく番なのだろう。だから今は、「私自身が」成果を得ることや、ひとつのことに夢中になれるということはそれほど重要ではないのかもしれない。そう納得すると少し心が軽くなる。
むしろ私の性格上、なにかひとつのことに没頭してしまうのは危険な気もする。母として、わが子たちのためには、バランスよく色々なことをこなすことが今は必要だから。買いかぶった言い方で憎たらしいかもしれないが、本当はもっとやれる、もっとやれるけどあえてしないという選択をしているのだ。だから歯がゆさを感じるのは当然のこと。この歯がゆさは覚悟のうえ、しばらくは付き合っていかなければならない感情なのだ。
私は、私が果たすべき役割を全うしている。
今はそのことを誇らしく思い、胸をはっていたいと思う。
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