夜更けにリビングでくつろいでいると、聞き覚えのある咳に似た音が聞こえてきた。コンコンという音。あ、毛玉を吐くんだな。そう、猫が毛玉を吐く音だ。トラが毛玉を吐いたようだった。
猫を飼ったことのある方なら分かると思うが、猫が吐く毛玉とは、文字から連想されるようなふわふわした毛の玉では全くない。水分を含んだ毛の塊、とでも言おうか。
早めに片付けないと。そう思って吐いたであろう場所を探して、あぁっと思わず声が出てしまった。その日の夕方から、長女が時間をかけてやった宿題のプリントの上に吐いてしまったのだ。なんとか拭き取ったものの、汚れは落ちきらず一部破けてしまった。やむを得ずコピーをとり、それを持っていってもらうことにした。明日朝起きて伝えるのが辛いな、と思いつつその日は眠りについた。
翌朝、早速起きてきた長女にそのことを告げる。やはり少し残念そうな顔をしたものの、淡々とプリントを確認して、コピーで写らなかった部分を書き足してランドセルにしまっていた。
しばらくして、長女の姿がなかったので様子を見に行くと、寝室で眠っているトラのそばで転がって背中を撫でていた。どうしたの?と聞いたら「なんだか可哀相に見えたから」と言う。私たちが、トラが吐いてしまったと何度も話すのを聞いて、しょんぼりしているように見えたのかもしれない。
こどもとねこ。一緒に暮らすうちに、子どもたちが彼らをとても寛容に受け止めているように感じる。猫たちにいつも悪意はない。だから、彼らがやってしまったことに対して子どもたちは「仕方ないよね」と、すとんと納得することができるのだ。
長女ほどではないが、弟や妹も同じような寛容さを持っている。もう一匹の猫、ルイは撫でていてゴロゴロと喉を鳴らしている最中にガブッと噛みつくことがある。「もう撫でるのは結構」という意味なのか「愛しさが溢れて思わず」なのかは全く定かではないが、弟妹はこれの被害に何度もあっている。弟は、顔面をやられることもしばしばだ。
その瞬間は痛みに思わず涙して、ルイ!と声を荒げる子どもたちであるが、痛々しい傷も消えぬうちにまた側で転がっている姿をよく見る。「もうやらないでね」と優しく諭す様子には、こちらが驚かされる。
子どもたちのこうした思考は、猫だけではなく自分たちに起こる色々な出来事や、または他人に対してもはたらいているように思う。わが子たちは「許す」ことがとても上手だ。
そうそう、トラが吐いてしまった日。夕食後、長女に「音読しなくちゃ。ママ聞いていてね」と言われた。オッケー!と返事をした数分後のこと、「ママ起きて」長女の声がしてはっとした。快諾したくせに申し訳ないが、長女の音読の声は、晩酌後の私には心地よい子守唄だったようだ。平謝りする私に、ちょっと頬を膨らませる長女。膨らんだ頬とは対照的に、まとう空気は柔らかい。私だって、子どもたちに許してもらう存在のうちのひとりだ。
許すことが得意というのは、文字通り「得」だと思う。怒りや悲しみの感情は心も体も消耗する。いつまでもとらわれて心を掻き乱してもいいことはない。受け止め、許す。心も体も軽やかに生きるのだ。

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