私は視力が悪い。裸眼だと0.1以下、視力検査でいう1番大きなCが識別できない。そのため、日常生活ではメガネが必須である。そんな私であるが、メガネを外す時間がある。お風呂に入るときだ。何を当たり前のことを、と思われるかもしれないが、このことが意外な盲点を生み出すのである。
私は家族の中で最後にお風呂に入ることが多いので、上がる前にお風呂掃除をする。1日の最後に浴槽と床をゴシゴシして、綺麗になったなぁとさっぱりとした気分で浴室を出るのだが…。シャンプーなどの詰め替え作業で日中に浴室へ入ると、おや!とびっくりすることがある。毎日綺麗にしているはずの浴室が、案外汚れていることに気づくのだ。時間が許せばそのまま掃除をするのだが、床を擦りながら「なんでだろう…」と振り返って考えたときに理解する、あぁこれを裸眼でするからだと。毎日大して見えていない状態で掃除をして、綺麗になったつもりで終えているからなのだと。
話は変わる。必死に幼児期の子育てをしている期間は、うとうとと急な睡魔に襲われることが多々ある。そのためコンタクトでは危険なような気がして、私はメガネを愛用していた。そう、10年くらいは、メガネのみで生活していたのだ。
先日の記事「カラフル」にも記載したが、わが家の子どもたちは無事に全員小学生となり、子育てに一区切りつけることができた。そして今、私はファッションへの興味を掻き立てられていて、それを楽しんでいる。その延長で、もうコンタクトを併用してもいいのではないかと思い、10年振りにコンタクトを作ったのだった。
そして気づくことになる。裸眼でいる時間がまだあることに。化粧をしているときだ。これまでは裸眼で化粧をして、仕上がってからメガネをかけていたわけだ。しかし私は10年振りに、コンタクトをしたピカピカの視力で自分のすっぴんをまじまじと見ることとなったのだ。それはまぁ…なかなかのもので、その後からお友達のサロンでフェイスケアをしてもらうほどには衝撃だった。
見えない幸せと見える幸せがあるなぁと、つくづく思う。
1日の最後にお風呂を磨いてさっぱりした気持ちの私は、現実にはそこに汚れが残っていようと幸せだ。見えないからこその幸せ。かたや10年振りにすっぴんを見た私の衝撃はたいそうなものだったが、その後からケアを始めて、少しずつ改善する肌の様子に今は嬉々としている。見えるからこそ得られた幸せである。
結局のところ、日々巻き起こることは自分次第、自分都合でどんな風にも解釈できるなぁと妙に納得したのだった。
コメントを残す